えりゅしおん窟 135号基 (どこまで行っても逃げてやる!)
公開終了

えりゅしおん窟 135号基 (どこまで行っても逃げてやる!)


「えりゅしおん窟 135号基 (どこまで行っても逃げてやる!)」のコメント

サイレンススズカのデビューは遅く、4歳になってからでした。
新馬戦勝利後、皐月賞出走権を得る為に弥生賞に出走するも8着に破れ、結局皐月賞には出走出来ませんでした。プリシパルステークスに勝利し、日本ダービーには出走したものの9着に大敗。秋になり、神戸新聞杯では2着となりましたが、天皇賞(秋)は6着、マイルチャンピオンシップに至っては15着惨敗とちぐはぐなレースを続けてました。
転機となったのは渡洋し香港国際カップに出走してからです。武豊が騎乗をかって出てくれて新たにコンビを組む事に(それまでは上村洋行と河内洋) ここで武騎手の採った戦法が「逃げ」でした。レースは結局5着にやぶれましたが、陣営は手応えを感じてました。

翌年からサイレンススズカの快進撃が始まります。
バレンタインステークスの勝利を皮切りに、中山記念、小倉大賞典、金鯱賞と4連勝。特に金鯱賞における他馬を全く寄付けない大差でのレコード勝ちは、この馬のポテンシャルを伺わせるものでした。
この勢いで宝塚記念に出走。武豊は先約のあったエアグルーヴに騎乗の為、やむえず南井克己に乗変わりとなりましたが、この年いっぱいで引退が決まっていた同騎手に最後のGⅠ勝利をもたらしました。
そして秋。かねてより目標としていた天皇賞(秋)勝利の為、前哨戦として毎日王冠に出走。しかし、このレースには1つ歳下の黄金世代、外国産馬ゆえにクラシック三冠には縁の無い2頭、グラスワンダーとエルコンドルサパーも出走してきて、三強争いの様相を呈していました。ちなみに両馬の主戦騎手を務めていた的場均は、同一レースの出走に悩んだ末、グラスワンダーを選択、エルコンドルパサーは蝦名正義に譲る事となります。レースは先頭を走るサイレンススズカは他馬の追従を許さず、最後まで追いすがってきたエルコンドルパサーに2馬身半差をつけて快勝。この時実況を担当した青嶋達也アナウンサーの発した「どこまで行っても逃げてやる!」は同馬に対する名文句となってます。
そして、運命の天皇賞(秋)。単勝オッズ1.2倍の圧倒的1番人気に推されてレースはスタート。毎日王冠を上回るハイペースで大逃げを打つも4コーナー手前で突然の失速。左前脚の手根骨粉砕骨折で予後不良と診断され、安楽死処分がされました。サイレンススズカは、誰も追付けないところまで逃げていってしまったのです。

DcfryrIU8AEV2PT.jpg